孤独な人魚たち。〜溺れるナイフの考察と感想〜
重岡大毅の、二作目となる外部作品「溺れるナイフ」を観てきた。
あらすじは、
神社の跡取り,コウという少年と、
東京から来たモデルのナツメが惹かれ合い鬱屈した思いをぶつけ合い、レイプ事件をきっかけにお互いに生まれたトラウマを乗り越えていくという話。
すぐになにかに例えたくなるヲタクなので今回もなにかに例えて溺れるナイフの、特にコウちゃんと大友の対比などについて述べていく。
*コウちゃん
彼は浮雲にある神社の跡取り息子。
昔は神社の家系がそこの地主であることが多く、恐らく彼の実家もそうである。
映画では描かれていないが、彼は浮雲の人々から神さまの生まれ変わりだと言われている。
映画の中に出てくる、
「コウちゃんと神さん」は「イエスキリストと神様」の関係なのだ。
そんなコウちゃんの前に現れた、
東京からやってきたナツメ。
小さい頃から特別扱いされ、なんでも思い通りになる浮雲の町はコウちゃんにとってつまらなく、そして同時に居心地がいい。
そんな中で現れた、唯一思い通りにならない彼女の出現がコウちゃんにとっては面白かった。
劇中でコウちゃんは言う。
「海も山も、ここにあるもんは全部俺のもんじゃ」
コウちゃんは、ここにあるものしか自分のものには出来ないのだ。それ以外のものは自分のものにはできない。
コウちゃんはここでしか生きられない、
浮雲だけでしか生きられない、
海の中でしか生きられない人魚のような存在なのだ。
浮雲という海から出たら、うまく歩く足を持たない人魚。
彼は、そのことを知っているが故に、遠くへ行ける彼女を美しいと感じる。
実はナツメも、芸能界という海がないと生きていけない人魚なのに。
コウちゃんは自分と同じ人魚に惹かれ、自分よりも広い海を泳げる人魚に憧れる。
神が自分についてくれていると感じるコウちゃん、まさに
「小さい頃は神さまがいて毎日夢を与えてくれた」状態。
ユーミンも納得。
そんな時、あのレイプ事件が起こる。
この事件でコウちゃんになにが起こってしまったのか。
浮雲で全知全能のコウちゃんは、浮雲で起こることならたいていどうにかなった。
最強のコウちゃんは、
海や山すらも思い通りにするコウは、
東京から来た部外者の男にはどうにもできなくてただただボロクソに痛めつけられた。
神さんがいなきゃただのガキ。
自分が、浮雲以外の世界では通用しないとわかっていたけれど、それを知らないふりして生きてきた彼に叩きつけられた現実だった。
これは浮雲で神さん扱いされていたコウちゃんの尊厳をバキバキにへし折った。
「初めておうた時、お前が光って見えたわ」
コウちゃんはナツメの絶対的な美しさを知っている。
だから水に突き落としたり、汚ったない溝的なところで突き飛ばしたり、顔にツバを吐きかけたり彼女を痛めつければつけるほどその美しさが浮き彫りになるんじゃないだろうか。
コウちゃんはどこかナツメに憧れている。
しかし、他の人みたいにナツメに憧れ、崇めるだけの存在としてはいたくない。
彼はナツメの神さんでいることで、なんとか自分の存在とナツメの存在のバランスを取っていたのではないかと思う。
実力のある人間に評価されることで実力があると思いたい。
コウちゃんにとって、
ナツメが望むように誇り高くあり続けることが、この町に、ナツメの傍に堂々といれる資格だった。
コウとナツメが海に行く時は、女の子の呼吸音が必ずBGMに紛れて聴こえてくる。
2人の人魚が会うのは海の中、生きるのに必要なものであり、同時に辛い過去であるのかもしれない。
人魚を救うのに失敗し、自らはその海に身を沈めた人魚は海の底ひで何を思うのだろうか。
*大友
彼は漁師の家の次男坊。
コウと切りつけ合うようにぶつかり傷つくナツメの心を癒す唯一の存在。
彼は登場人物の中で1番優しく強い。
長男で跡取りのコウとは違い、次男であるが故にこの街を出て生きていくことだってできる。
これがなければ生きていけないというものを持たない、縛られない自由な存在。
どこにいったって、アイスや野球、映画にカラオケ、色んなものを好きになることが出来る。
彼は陸地を歩き、海も泳げる人間。
大友とナツメの海のシーンがないのも、海がコウとナツメにとっては特別な唯一無二の場所であるが、大友とナツメにとっては唯一の場所ではないからなのではないだろうか。
ナツメが自分の人生に巻き込むように傷付けて、一緒に海に引きずり込もうとしても、
人魚を抱えて太陽の当たる海面へと顔を出す、そんな力強さを持っている大友にナツメは惹かれ、でも同時に苦しい。
人魚は人魚としか一緒には生きていけないのかもしれない。
大友はアホな役を演じながらもとても繊細な感性を持っている。
出来上がって作ってもらったお弁当をくちゃくちゃと汚く咀嚼するクラスメイト、彼の目にはその様子が作られた情報を意地汚く摂取する醜い姿そのものに映ったのだろう。
ナツメが別れを切り出した時も、仕事ではなく原因はコウであると見抜いている。
しかし、大友は絶対にコウちゃんには勝てない。
それは、大友とナツメの別れのシーンで描かれる。
大友は泣きじゃくるナツメを押し倒して何度も言う。
「笑ってや」
このセリフ、全く同じセリフを言っていた人物がいる。
レイプ犯のあいつだ。
大友とレイプ犯の違い、レイプ犯は笑え笑えと強要するだけであったのに対して、大友は「笑らせたい」と自分を省みる心を持っている。
しかし、ナツメ目線で描かれるこの映画において、本当は男の種類はコウちゃんとそれ以外しか存在しないのかもしれない。
この「溺れるナイフ」という題名。
コウちゃんはナツメにもう俺に姿を見せるなと言い残し、ナイフを渡す。
再び襲われた時に、ナツメの傍にあり一番最初にレイプ犯に牙を向いたのはコウちゃんではなくこのナイフ。
ナイフはコウちゃんの象徴で、ナイフは文字通り海に沈められ溺れる。ナイフの象徴であるコウちゃんはナツメに溺れ、自らの運命に溺れる。
原作ではナツメが東京に行ってしまった後、コウはどんどん尊厳を失い、ナツメに溺れていく。
大友ももっとコウに牽制しまくるし、コウに勝ちたいという気持ちが大きいように思える。
カナちゃんの複雑で異常な感情が加速していく片鱗を見せて映画は幕を閉じる。
しかしながら、映画で描かれているのはコウとナツメが一番美しかった時期を映像で切り取り、人間の嫌な部分が見えてくる前の大友とカナを描いている。
私はこれが漫画の世界にはできない美しい「溺れるナイフ」の表し方であり、菅田将暉,小松菜奈,重岡大毅,上白石萌音の魅力を引き出す最良の作品であったと思う。
自転車の二人乗りでトンネルに入り闇に消えて行った2人は最後バイクに2人で乗る。チラリと見えた光がナツメの顔を照らして映画は終わる。
少女たちのまぶたに残る、
美しい「私の神さん」はいつまでも美しい海の中を漂い続ける。